2016年9月5日月曜日

2016 クライブ・シェリダンのリトリート&ワークショップ 今年も開催です〜

すっかり年1回の更新のブログとなっております。また、今年もクライブ・シェリダン師匠が日本やってきます。京都嵐山でのワークショップ、東京奥多摩の御岳山でのリトリートが9月にあります。何となく書きたいことはあるけれども、どんなことになるやらに、徒然なく綴ってみます〜
 ではまた、恒例の今年のお札(フライヤー)をどうぞ!

真・善・美!

今年は、今までのシャクティな感じ —赤系とか下向き三角形— からシヴァな感じになりました。クライブ師匠の色をフィルターしたりして、なんだかクラブ・イベント風な印象を与えてしまったりするかもしれませんが、ちゃんとヨーガのワークショップと合宿です。けれども、そんなクラブ・イベントとか通っていたような方々にぜひご参加していただきたいような気持ちも多分に含まれています。音楽が好きで自由を愛するココロを持っている方々に送りたいです。
 シヴァについて、一応、説明しておきますと、シヴァはインドの神さまの一柱ですが、シャクティ(女神—女性原理)と対比したとき、男性原理あるいは純粋意識を象徴したりもします。枠上段の上の文字、“Satyam Shivam Sundaram ! ”  「真・善・美」とでも訳されましょう。"Satyam" は真理・真実、"Shivam" はまさにシヴァですが、その意味は「善き人」「吉兆の人」とされます。破壊の神とされますが、その名前の意味は素朴に真っ当です。シヴァはまた、ご存知の方も多いでしょうが、ヨーガの始祖ともされ、ヨーガ行者のイメージとしてとらえられることも多いです。"Sundaram" は「美しさ」です。合わせて「真理を体現する善き人は美しい!」とでも訳せましょうか。シヴァのマントラのひとつです。
 枠の上段の真ん中の上向きのフォークのような形のものは、トリシュールと呼ばれる三叉の槍で、 シヴァ神の図像を見るとよく出てくるアイテムです。インドでシヴァ派の聖地に行くと目にすることもありますし、実際に持って歩く行者もいます。一言でその意味合いを言うとすると、「間違った理解を断ち切る象徴」とでも言えましょうが、さまざまな意味合いがあります。詳しくはネットなどで調べてみてください。
 枠の中段の真ん中は、以前のお札でも出て来たシュリ・ヤントラです。上向き4つの三角形は男性原理シヴァを象徴し、下向き5つの三角形は女性原理シャクティを象徴します。上向き下向きの三角形が同数でないのがミソで、均衡のズレが現象世界の多様性を象徴しています。インドで9はマジック・ナンバーです。
 枠の下段の真ん中は、去年も出て来たシャクティを象徴する下向き三角形です。その中にサンスクリットのオームの文字。現象世界を生じさせるエネルギーを宿した女性原理。去年のブログはこの話を書きました。

直接の道

そして、枠の下にあっさりと書いてある “A Direct Path to . . . Self-Realization” は、「セルフ・リアライゼーション(自己実現)への直接の道」という意味です。よくわからない表現かもしれませんが、クライブ師匠の勧めることは、そして多くの真剣な行者がヨーガを行うのはこのセルフ・リアライゼーションを目指す、自己の真理に辿り着くことです。この道にはさまざまなものがありますが、多くの道は何かいろんな用語を覚えたり、こんなことが出来るようになったり、あんなことが出来るようになったりしてと段階的な道であるようです。クライブは、直接な道を勧めます。段階的なプロセスを軽視する訳ではありませんが、その段階的なことにはまり込み本来を目的を見失わないように伝えます。多くのことがそうではありますが、目的を目指すための手段が目的化し、なぜこんなことをしているのか疑問にも思わないような事態が日常化します。そうした惰性にはまらないように、シンプルにただ気付くことが大事です。注意深さを養う必要性をクライブを伝えます。私たちは真理に気付くチャンスを見逃し続けていると考えられます。そうした時間の無駄をなくし、直接悟れと私たちを促します。
 これは難しくあるように思えるかもしれませんが、朗報です。今後、いまの世界情勢が続くと仮定した場合、世界はますます混乱を深めていくことは間違いありません。世界各地でのテロや戦乱、国家を超えたコーポラティズムの蔓延とそれに伴う格差の増大、原発などが残すことになる負の遺産、気候変動などによる今までにない自然災害の多発、世界規模での火山や地震の活発化、等々。いま大きな変化の渦に地球はあります。神経反射的・感情的・経済的な対応ではなく、多くの人々による深い気づきによる対応が必要なのではないでしょうか。ヨーガあるいはノン・デュアルは、ひょっとしてそこに貢献できるかもしれません。

シャクティに導かれシヴァの旅へ


さて、ここからは自分の旅の話へ。いままでインドで自分が訪れる場所は女神の聖地ばかりだったのですが、昨年、毎年訪れる南インドのとある聖地を7度目に訪問した後、インドの真ん中あたりのシヴァの聖地を訪ねることになりました。お札の意匠にシヴァ的な要素が入って来たのには、そんなパーソナルな側面もあったりします。実は、今年のクンバメーラ(12年に一度のインド最大のスピリチュアルな祭典)に行ってみようと思って、その開催地であるウッジャインを参拝しようと思ったのでその下見も兼ねた旅でした。ウッジャインを訪ねる前に、友人たちからお勧めの場所だと聞いていたナルマダ川沿いのとある聖地でマハー・シヴァラートリー(シヴァの祭り)の時期を過ごそうと思って行ったのでした。シャクティの聖地を出発するとき、いつになく友人たちが見送ってくれました。

母なるナルマダへ

聖なるナルマダは、ぱかーんと開けた空に清らかな大河が流れます。行った途端に気に入ってしまいました。あるサドゥ(出家行者)と出会い、クンバ・メーラが来年あるんだけど、行かないか?と誘われ、え、いや、クンバ・メーラどんな感じかなあ?と聞こうと思ってたんだよね、と話は早い。シヴァラートリーでは川辺のあちこちで繰り広げられているバジャンを訪ね歩き、そろそろこれからウッジャインに行くとサドゥに伝えに行くと、結局、そのサドゥと彼のアシュラムに来ているまた素敵なジェントルマンの3人でウッジャインに巡礼に行くことになりました。現地に詳しい方々がいてくれると話早いです! ウッジャインでのシヴァの聖地の最も代表的な寺やクンブ・メーラの会場となる子午線の通る寺を参拝し、2人は私を駅まで見送ってくれました。素敵なジェントルマンは最後に「君は戻ってくる、また戻ってくる、また戻ってくる!」と私に言いました。

1000万人が集まる巨大な祭りへ

今年の5月、ウッジャインのクンバ・メーラに行きました。詳しくは別の機会に譲りたいと思いますが、素敵なジェントルマンのいるアシュラムにどうにか辿り着くと、彼が出迎えてくれます。髪が短くなっています。「今日、サドゥになったんだ」と。ジェントルマンはサドゥになっていました。もうひとりのあのサドゥはどうしているのか聞くと、ナルマダにいるとのことで、翌日、滞在していたアシュラムに戻り、荷物をまとめナルマダへ。ウッジャインは半端なく暑かったので、予定になかったナルマダでひと涼みもかねて。良きサドゥに再会し、彼を連れて再びウッジャインへ。道は夜中にも関わらず巡礼のクルマで大渋滞です。一緒に旅をしたり巡礼をするのは、とても仲良くなれる気がします。
 彼らと共に過ごさせていただいたアシュラムは、ポジティブなエネルギーに満ちて素晴らしいところでした。昼間は45℃にもなります。夜は風が吹いて心地よく、何と言っても食事が半端なく美味しく、いままでインドでいただいた食事の中でも最も美味な食事のひとつでした。昼と晩に食事を5000食提供していて、ドネーションで成り立っているそうです。素晴らしい!
 サドゥと言う言葉の意味は、シヴァと同じく善き人、まさにジェントルマンです。そうでない方々も多かったりもするので、気をつけないといけないかなとも思っていたのですが、この2人のサドゥのおかげで、私はすっかりサドゥと呼ばれる人々に魅了されてしまいました。自由を愛し、シンプルに、思うままに、求めずに生きる人々。

動かされて・・・標高4,500メートルのサーダナ・プレイス


6月、ヒマラヤのガンジス源流部とその上のとある聖地へ。これは行くだけで充分修行です。まずは6時間のバス移動。しまいにはバスで山道を立って2時間 × 2回。2時間までは山道のバス乗車、立ったままでも大丈夫なことがわかりました(笑)。途中下車のおかげで温泉にも入れました!
 自動車で行ける最後の町、ガンゴトリまで行って、あるアシュラムに泊まり、翌日、アーサナの出来るシャラに行くと、なんとクライブのリトリートに来ている友人にばったり。彼女の旦那さんは何度もヒマラヤに来ていて、いろいろ詳しい話も聞けました。
 ウッジャインでの滞在は、知らぬ間に身体に相当なインパクトがあったらしく、その後、しばらく熱中症の後遺症のような感じでとても山に登れるようには思えなかったのですが、山に行く朝、それまで雨降りが続いていたのが晴れて、絶好の日和です。母なるガンガーに沿ってなだらかに登って行きます。しかし、さすがに登山、標高が上がるにつれて呼吸は厳しくなってきます。途中のアシュラムで一泊し、翌日はガンジス源流に参拝、その先は氷河、さらにその先は急な登り。ちょっと歩いたら一休み、を何度も繰り返しているうちに、開けているところに辿り着きました。標高4,500mのガンガーのシャクティとシヴァを象徴する山の聖なる行場でした。ここへ来る前、ある先輩行者の方にヒマラヤに行こうとは思ってるんだけど、熱中症の後遺症で「全然、登れる気がしないんですよね」と話してたんですが、「君が動くんじゃなくて、動かされるんだよ」と言われていたのです。まさにその通りでした。

ヒマラヤのアシュラム

ここでの話も、詳しい話はまたいずれですが、あるサドゥと出会い、彼のアシュラムに泊めさせていただきました。沈黙の行者で、会話はジェスチャーか筆談で返事が来ます。私が巡礼とサーダナ(行)のために来たことに好意を持っていただいたようで、滞在中はサーダナに専念させていただけました。ほぼ2日くらいはほぼ高山病のような感じでしたが、慣れてくると瞑想には最高の場所です。雪に閉ざされる冬も含め、彼は15年に渡りヒマラヤで過ごしているそうです。あるとき、彼に尋ねられました。何のためにヨーガをしているのかと。フィジカル・エクササイズのためか? セルフ・リアライゼーションのためか? と。それは、当然、セルフ・リアライゼーションでしょ。自分はアーサナもしますが、それはより瞑想を効果的に行うためで、アーサナはそのための手段であり目的ではありません、ってひょっとしてまだ「常識」じゃなかったりします? しかも、瞑想さえも手段であり、目的ではないって言ったらそれはラジカル過ぎ?
 でも、少なくともインドでは、瞑想なしに成就はないらしいですから、とりあえず最終手段らしいです。あ、訳の分からない話でしたら、すみません。もちろん、とりあえずのアーサナも大事です。目的化してしまうくらいはまり込むことも自分にとってやっぱり良い時間でした。それがあっての瞑想でした。
 ヒマラヤ聖地に滞在している時間そのものがある意味、瞑想でした。その中で、座って行う瞑想が深みをもたらします。何年かに一度は来てみたいなと思っていたら、沈黙のサドゥが筆談で修行のサポートをしてくれると言います。願ってもない! さらに、毎年、1ヵ月滞在するといいと。えっ!? それはちょっと難しいかな〜 でも、ちょっとトライしてみたいかも・・・ 日本に戻って来て、インドで体験したことを咀嚼して、自分なりの理解や意味合いが次第に明らかになってきます。何も特別なことはありません。誰もが一人ひとりユニークな存在であるだけです。それぞれがおかれた境遇であるがままにあるだけです。そのことに気付くだけです。

肯定的な選択肢に気付く

私たちは、否応なく、世界情勢や地球規模の変化やあるいは運命と言うものも巻き込まれざるをえないでしょう。しかし、根源的な意識は常にあるがままです。そこに気付けば、選択肢があります。多くの人々が目覚めることで、肯定的な未来を選び取れるのではないでしょうか? もちろん、過去も未来も心理的な投影に過ぎません。しかし、時間と空間に縛られた現象世界には、不可逆的なタイムラインが存在することは限定的ではありますが事実です。そして、人類は地球に負荷を与え過ぎています。強欲的な資本主義を押し進めるグループと無関心あるいは誤解によって知らず知らずのうちにその方々に白紙委任状を与えてしまうことによって、その流れはますます強くなってしまいます。まさにカリユガ、暗黒時代です。
 このままではどこかで後戻りが出来ないところに来てしまうかもしれません。流れが変わるきっかけがあったら、それを見逃さないことが必要かもしれません。暗黒時代には聖なるシャクティが目覚めるとも言われます。そして、シヴァは聖なるシャクティを愛します。恐れや不安があったら、それがいったい何なのか注意深く観察する必要があるかもしれません。私たちは一般的に、それまでの個々人の経験による条件反射的な反応をしてしまう傾向があります。その傾向を、価値判断を一旦わきに置いて、理解する必要があるかもしれません。

「サドゥになれよ」

最後に沈黙の行者のくれた言葉をいくつかシェアしたいと思います。「自分の内側に深く入り込むこと」「〔私〕とは何なのか問うこと」「そして〔私〕を見いだすこと」。サドゥは公式的には、いくつかの伝統的な流派のなかで認定された行者の方々を指す言葉と思っていましたが、彼はサドゥをこう書き表しました。「サドゥとはジェントルマンで、全てを愛し、善を為す者のこと」。クライブも本当のタントラ行者のことをジェントルマンと言っておりました。本当のタントラ行者もジェントルマン、あるいはジェントルレイディです。本当のヨーギ、ヨーギーニーもそうでしょう。クンバ・メーラで、あるサドゥのところに訪ねに行ったとき、サドゥたちの別れ際の挨拶の言葉を教えてもらいました。来訪者はサドゥに「サドゥになれよ」と言い、サドゥも来訪者に「サドゥになれよ」と返します。その時は、「え、素っぽんぽんで、身体中に灰を塗りたくるのはちょっと〜(笑)」と思ってましたが、そういうことだったんだと後になって理解し、ますますサドゥたちが素敵に思えて来ました。今ではいつか仲良くなったサドゥたちに日本に来て見てもらいたいと思います。そんな日を願いながら、自分でも思いもよらない自動書記的な「こんな話になっちゃうんだっ」て、ひょっとしてよく分けのわからない話をここまでお読みくださりありがとうございます。
 次回の更新はいつになることやらですが、機会がありましたらまたどうぞ〜

2015年8月31日月曜日

2015 クライブ・シェリダンのリトリート&ワークショップともろもろ思いついたこと

またしても、1年振りとなるブログで、今年のクライブ・シェリダン師匠のリトリートとワークショップのご紹介です〜と言うつもりで書き始めてみたら、あれこれとりとめもない話になってしまいました。

ヨーギーニーはシャクティである


まずは恒例の今年のおふだ(フライヤー)です。
今年は、シャクティをフィーチャーいたしました。裏面にも記しておりますが、シャクティとは、インドでは一般的に女神を意味するほか、原初的な宇宙のエネルギーでクンダリニーと呼ばれる潜在的なエネルギーでもあるとされます。背景の赤色もシャクティの象徴的色。下の赤紫もそのバリエーション。上の橙色はインドではババ・カラーとも言いますが(?)、神聖色です。今年は、思い切りインド色が強い感じになっております。
 下向きの三角形はそのヤントラ(神聖幾何学図形とでも申しましょうか)で、下向きであるのは、大地に根ざすと言うか、大地から物質化あるいは現象化する顕われです。対となる概念はシヴァ。シヴァ神のシヴァですが、その場合は、神さま的な意味合いというよりは、普遍の純粋意識というような意味合いになります。こちらは上向き三角形なのは以前のブログにも記した通りです。

 シャクティの女神としての意味ですが、これもさまざまな位相がありまして、各地の寺院や祠(ほこら)で祀られている個別の女神のことを意味するのと同時に、マハー・シャクティ(大女神)とも呼ばれる、宇宙そのものである究極の神格としての意味合いもあります。世界の多くの宗教観では、究極の神格は男性神か性別のない非人格神が一般的な扱われ方ですが、インドの特にタントラ的な世界観の中では女性的な側面が与えられているところが私はとても素敵だと思います。何かしかつめらしい堅苦しい存在でではなくて、見守り育む優しさと妖艶さとある種の恐ろしさを持った存在としての女性性のエネギーを究極の神格として見立てることは、聖なるものをもっと身近にしてくれるように思えますし、微笑みも増しそうです。インドではそのように実感いたします。
 また、地域の個別の女神などの神格は上位の大女神などの神格と別個の存在ではなく、その一つの顕われと考えられるところがインド的考え方です。それがさらに引き延ばされて、女性ヨーガ修行者、ヨーギーニーもシャクティであり、子を産み育てるお母さんもシャクティであり、インドではお母さんはとても大事にされています(と言うことになっていますが、実際はそうでないことももちろん多々ありです)。Om Shakti Maa ! の Maa は、お母さんということです。さらには、全ての女性はシャクティである、とも考えられます。Om は無から世界が顕現することでもありますし、Shakti Maa は言うなれば、マザー・アース、母なる地球とも言えましょう。

 毎年、どんなデザインにするかは、その時のインスピレーションなんですが、今年は4月に、以前、大阪であったヨガのティーチャー・トレーニングのときの生徒さんがスタジオを開くというのでそのオープニング・パーティに招待いただいたのですが、なんとスタジオのお名前がシャクティ・ヨガ・スタジオ! 私はとても嬉しくなって、もう、とにかく行く!という気持ちの延長線で「よし、今年はShakti ですな!」ということになって、こういうデザインになりました。

 裏面も行ってみましょう〜


 スタジオを開かれた方々も、とても素敵なお母さんヨーギーニーでまさに元気溢れるシャクティです。シャクティ・ヨガ・スタジオのリンクはこちら。私の分身のDovrocsky(a.k.a Dovy)はこのパーティで、DJをやらせていただいておりました。すごくシャンティなエネルギーで大喜びだったようです。ちなみにDovyはファンキーなインドの大衆音楽(ヒンディ・ポップス)を中心に南インドの古典音楽(カルナティック)やバジャンなんかを廻すDJのようです。

 さて、インダス文明から数えるとして、5000年くらいのヨーガの歴史があるとして、その間、もちろんたくさんの女性修行者(ヨーギーニー)がいたと思いますが、今の時代ほどヨーガが世の中に、しかも女性たちのあいだに普及した時代はなかったと思います。普及の代償として、ヨガが底の浅いものと化していったり、過度に商業化したりということは、この十年ほどのヨガ・シーンの変遷を見ていても明らかではありますが、それでもなお、ヨーガがこれだけ日常に根付いてきていることって、考えたら凄いことだと思います。

ヨガを教える「資格」ってあるの?


私がヨガを始めた時も、周りは女性の生徒さんたちばかりでしたし、ティチャー・トレーニング(講師養成講座)とかを受けた時も男性は私一人でした。多くの方はヨガを始めて3、4年で去っていきますが、より深い道に入って行く方も少なからずいます。初めは美容目的かなと思われるような方も次第によりスピリチュアルな方向、瞑想への道に入っていくのを何人も見ています。十年以上前、ヨガの講師になるための場所も機会もあまりありませんでしたが、今は驚くべき数の講師養成講座があって、もの凄い数の方々が講師の「資格」を取られています。実際は「資格」なんてものを誰も発効する権利はなくて、しかるべき時間をかけて、しかるべき講座を修了しましたという修了証がもらえるだけで、資格がもらえるわけではもちろんありません。ヨガの教える「資格」とは、昔であれば師匠の承認でしょうが、現在のそういった講座では「これこれの課程を修了しました」と言うこと以上のものでも以下のものでもないわけです。
 今の講師養成講座は、おおよそヨガ・スタジオで教えるに際して必要と思われるノウハウ—つまりアーサナの技術とヨガの基本知識—を教えているわけです。最近、驚いたのは、どこかの講師養成講座では、ヨガ講師としてやっていくためのマーケティングのクラスもあるんだそうです。私がヨガを始めた時にはそんなことあり得ないと言うか、それヨガじゃなくてヨガの皮を被ったビジネスでしょう? と言う感覚だったと思いますが、今ではヨガ講師はポピュラーな職業なんですね。もちろん、マーケティング・ヨガを否定するつもりは毛頭ありません。良いのではないでしょうか、時代のニーズに合ったヨガがあって。私も試しにそういう講座行ってみようかな・・・
 もっとも、クライブ師匠が講師養成講座に通ったと言う話は聞いたことないですし、40〜50年前の時代にそんな講座もなかったでしょう。私の先生の一人であるダニー・パラダイス氏は、ヨガをいつ教えるか? と言う問いに「ヨガ教えて〜」と友だちとかに頼まれたらと言っていました。これはなるほどと思いました。
 まあ、現代はカリユガ(暗黒時代)ですから、ヨガのマーケティングも全然仕方ないですが、講師養成講座とかで何年か教えていたりして気付いたのですが、少なくない方が仕事としてヨガを教えることに忙しくなってしまって、なかなか自分のヨガの時間あるいはヨガの学びの時間を取ることが難しくなってると感じます。中にはクラスのためにヨーギーニーを演じている方もいるかもしれません。そんなに頑張らなくてもいいのに〜と思いますが、生き抜くために瞬間風速的には仕方がないのでしょう。もちろん、これは大抵、エゴ・マインドの問題で、世の中ほとんど意味の無いことにエネルギーが浪費されていて、まあ、それがこの世の現実をつくっているわけで、どうしなきゃならないとかどうしてはならないとか言うことはなくて、賢者たちはただ「気付けばいいんじゃないですか?」と問いかけているわけであります。

 ちょっと話が逸れるかもしれませんが、インドや自然の湧水地とか原初の清浄なるものが発している場所に行ったりすると、清々しい気持ちになったりします。インドにまで行かないまでも、何かしらか源から来るものを直接、充分に体験する必要があるんじゃないかなとあらためて思います。何と言うか、知識が頭の中で貯えられているだけではなくて、その知識が野山や水辺、森の中でカラダが体験することと充分に馴染んでいくといいんじゃないかと思います。パソコンや携帯など私たちを取り巻く電子環境は、電磁波を含めるにしろしないにしろ、人類が今まで体験したことのない状況です。それは仕方がないことかもしれませんが、<目—脳—指>を中心としたカラダの使い方は、脳を含めた神経系を主に使います。「思考・観念」が優位になり易い状況です。と言うか、今の世の中はそのロジックで動いています。おそらく、この数百年、私たちは、「感じること・今ここ」については退化していっているでしょう。

 ヨーガは「思考・観念」 の領域もありますが、本質的には「感じること・今ここ」に立ち返ることを重視していると思います。翻って、多くの女性たちがヨガを模索していることを自分なりに理解しようとしてみると、男性的な「思考・観念」の世界からより女性的な「感じること・今ここ」に戻りたがっている一つの顕われなのではないかと思ったりします。しかし、ヨガの世界もマーケティングがより幅を利かせるようになり「思考・観念」に絡めとられて来ているのかもしれない。これはなかなか難しいですね。
 ヨガの講師養成講座に戻りますが、これはなかなか便利なものです。200時間くらいの時間が取れれば、アーサナの技術やヨガ哲学を一通り学べるわけですから。場合によっては、マーケティングまで! しかし、「感じること・今ここ」はお勉強してどうにかなる問題ではなくて、生来の資質があるか十分な経験が必要です。この辺りが一人ひとりの方々にとってヨーガがよりいきいきとしたものになっていく鍵なのではないかと思います。

クライブから聞いた彼のヨーガ修行


では、先人に学ぶと言うことで、昔はどうだったのかってこと、まだ、講師養成講座がなかったクライブがどんなふうにヨーガを学んできたのかをいろいろ以前に聞いた話から書いてみようかと思います。
 クライブ師匠は20代の頃から、インド各地の山や森や河、アシュラムや寺院で修行してきたそうです。ヨーガのアーサナは先生からの指導を受けたりもあったそうですが、アイアンガーの日本語でも出ている『ハタヨガの真髄』ですね、それを持って山や川辺で独習していたそうです。時には、ハタヨガを行じているサドゥ(出家修行者)とともに練習をシェアしたりしていたそうですが、インドの現場では今どきのヨガ・スタジオでやっているような洗練されたアライメントみたいなものはあまりないような感じらしかったそうです。30〜40年前は、ヨガマットもまだなく、ヨガマットは、ヨガ現代史上(そんなものがあるとすればですが)かなり画期的な発明だそうです。それ以前はゴザだったそうです。そう言えば、昔の日本のヨガ教室ではバスタオルでした。

 話し戻って、クライブは、瞑想はヴィパッサナから始めたそうですが、インドで修行するうちに自然と深まっていったようで、各地の寺院や山や洞窟で座ることを続けてきたそうです。私もいろいろなところで座るのが気に入っていますが、彼に教えていただいたところで気に入った場所は毎年、座り(瞑想)に訪れています。その場所はまさにシャクティの寺がある村であり、その寺は多くのインド人の家族連れが訪れるような寺院で、カルト的なアシュラムの雰囲気は微塵もない場所です。千年以上に渡って儀礼を司る聖職者の家系の僧侶たちがおそらく千年前とほとんど変わらないことを続けていて、いまや経済発展したインドの中流家庭の観光旅行の人気のデスティネーション(旅行先)になっているようなところです。まあ、日本人が高野山や熊野に行くようなノリだと思ってもらったらわかり易いかもしれません。インドの観光旅行はおそらく巡礼をかねていることが多く、出会った方々は「何日かかけてこの寺とこの寺とここを廻って帰るんだ」と言うような話をしてくれます。私の方も「なんでここに来たの?」とか聞かれます。「だって、あちらの方から何とも言えないありがたさが・・・」とか答えると、そうか(外人の)あなた(で)もわかるのか言わんばかりに握手を求められるような感じです。
私も7年、毎年同じ村に通ってますが、近年、増々その村に来る来訪者が増えて、大きなホテルが建ったり、山が削られて宅地になったりするのを見ました。クライブが昔に訪れた時とはずいぶんと様変わりしたそうです。それでもなお、早朝にその寺で座ることの素晴らしさは、とりあえず自分にとっては例えようも無くありがたいことです。そういえば、去年その村に滞在している時に、脈略なく、とにかく、「マザーなんだ!」と言うインスピレーションが湧いてきて、理由のない感謝が 沸き起こってくることもあります。面白いですね。

喜びに溢れた修行の道を!


クライブはインド中を巡って修行をしてきたそうです。1966年から、時にはほぼ住むような時もありつつ、毎年のようにインドに滞在しています。いま計算してみたら、まさに巡礼(ヤートラ)を50年ほどインドで続けているわけですね。それって普通にスゴいことですね。巡礼は、インドにおける修行のメニューの中でも重要度の高いものです。いろいろな巡礼地やそれらの聖地を巡る周遊ルートもあります。日本で言えば、四国のお遍路さんのようなものです。聖地巡礼をし、行く先々で修行や出会った修行者たちと交流して知識や経験をシェアする。どこかのアシュラムに学びに行くのよりももっと自由な修行の旅です。こういうスタイルは自分にはぴったりで、基本的な技術を習得したらあとは自分でやるしか無いわけですから、それをより良い場所、聖地とは修行に最適なエネルギーの場所ですから、自分に合った場所で練習するのは実に理にかなったことなのだと思います。
 そして、ここが大事なポイントなのですが、クライブは義務感に駆られて練習したことはないと言います。いつも喜びに満たされて修行—アーサナ、プラーナヤーマ、瞑想の練習—をしていたと言います。義務感は「思考・観念」の領域だと思います。それではとても続かないでしょう。ただ、その中でも日々の瞑想は出来るだけした方が良いと勧めていて、私も毎日、座るようにしていますが、ときにはアリバイ的に義務的にあるいは儀礼的に10分だけ座ることもありますが、日々続けていくと、ある程度(30分以上)座らないと、なんだかしっくり来ない感じになってきたりします。比較的時間に余裕があるとき、座ることは出来不出来に関わらず喜ばしいことだと実感します。
 このような喜びや感謝のある状態、あるいはとらわれの無い状態とも言えるかもしれませんが、これは「感じること・今ここ」に通じると思います。エゴ・マインドから比較的自由な状態です。もちろん、悟りにはまだ遠いかもしれないけれども、エゴ・マインドから自由になること、それをカラダとココロに充分と実感させることが大事なのかもしれません。

 クライブのリトリートやワークショップでの練習は、アシュタンガ・ヴィンヤーサに近い強度のアーサナでプラーナヤーマも結構きつめです。ただ、けして自分の限界を超えて無理にポーズをさせたりすることはありません。もっとも、ゆるゆるにやっているとしっかりとしたキツいアジャストが入ったりしますが、まあ、これは愛のたぐいです(笑)。
 クライブのリトリートやワークショップは、何もサーティフィケーション、つまり修了証は出ません。むしろ、ある程度、基本を学んだ方が本格的な修行を自分で進めていくことにいざない、生徒たちを野山に放つようなところがあるように思います。『マハーバーラタ』などインドの古代叙事詩なんかを見ると、リシ(聖仙)たちはたいてい森に棲んでいます。ヨーガは歴史上長く、森の中で実践されてきたのが実情です。リシケシがヨガの聖地とよく言われますが、それはむしろ最近のことのようです。もちろんリシケシを否定するつもりは毛頭ありませんが、東京であれ、大阪であれ、リシケシであれ、どこかでヨガを学んだら、そこで学んだこととヨガ・マットを携えて、森や山に行ってみる。携帯やガジェットのスイッチは切って、一人あるいは数人で自然に馴染んでプラクティスを楽しむ。これぞヨガの喜びです。そういった喜びをクライブは私たちに伝えます。

 今回で、クライブのリトリートとワークショップのオーガナイズは4年目になりますが、毎年思うのです。まだ会ったことのないハートのつながる仲間に会いたいと。そんなつもりで、あちこちにおふだ(フライヤー)を蒔いています。もちろん、会ったことのあるお友だちにも、来る来ないは別として、私たちのこのリトリートとワークショップにかける思いが伝わりますようにと。(時々、フライヤーに込めた思いに、肯定的な言葉をかけてくださる方、ほんとありがとうございます!)
 そして、もし、ここまで読んでいただけたら、支離滅裂な文章をご拝読いただき、ありがとうございます!

2014年7月3日木曜日

2014年 クライブ・シェリダンのリトリートとワークショップ

ほとんど更新されないブログで、今年もやはりパスワードを忘れてしまい、いろいろ試してみた結果ようやくログイン出来ました。そんな訳で、相変わらずネット難民です。テクノロジーはそこそこ行けるんですが、IDとかパスワードが関門なんですね。

 ブックレヴューのブログにしたいと思いつつ、全くいつになることやらですが、今年2014年もクライブのフライヤーが完成しましたので、今年もどうぞよろしくお願いします。

Wake up !  Move on !   目覚める! 踏み出す! 
今年もクライブ・シェリダン先生のリトリートが開催されます。今回も短期滞在コースをレギュラーコースとともに行います。ハタヨガのヴィンヤサとプラーナヤーマ、メディテーションなどしっかりとした練習に加え、クライブの体験に基づくヨーガの叡智を学べるサットサンガ(講話)は、ヨーガのより深い理解をもたらすでしょう。
 クライブ先生の教えの特徴は、大きな視点でヨーガの全体像を理解する総合性です。ハタヨガに加え、タントラ(密教)とアドヴァイタ(非二元論)の学びが、私たちのこころの本質や宇宙的な真理とされるものに自らアプローチするすべを与えてくれるでしょう。理解し、体験し、さらに理解する。その繰り返しの中に「私」と思われる存在の核心に迫っていくプロセスがあります。
 フライヤーの2つの正三角形のヤントラについては、以前書いたので省きますが、今年は2つの6面体(キューブ)を掛け合わせました。正方形(スクエア)は、シビアな現実を象徴します。しかし、2つあるので実はそこには見えない8角形が隠されています。8は∞(無限)に通じます。シビアと思われる現実ですが、それにあえて直面することでブレークスルーするのではないかと思われます。紙のフライヤーを手にされたら、ぜひ少し暗いところでご覧ください。この2つのキューブが発光して見えます!
 時代も大きな変動のさなかにあります。人のこころも大きく変わります。人生の岐路に差し掛かっている方も少なくないことでしょう。そのような方には(もちろん安寧に暮らす方にも)、御岳山のリトリートをぜひおすすめしたいと思います。
 深いところで目覚めて、自分が本当に望むところに向かって歩み出す。そのようなきっかけになるリトリートとなることをオーガナイザーは願っています。






















裏面も貼っておきます。今年は内容を整理して、キーワードなどをつけてみました。一般的に今どきヨガと言えば、ハタヨガですが、それだけにとどまらないものがありまして、タントラとアドヴァイタについて簡単な説明をつけました。クライブのプロフィールにもありますが、彼の祖父は日本人です。10代のころ目指した日本に60代になって初めて来ることになりました。

 現代のヨガの再興は、19世紀〜20世紀初頭にかけてのヨーロッパでの東洋神秘思想への関心の高まりとイギリス植民地化にあったインドでのヨガをはじめとする伝統文化のリバイバルが出会うことでその基礎が培われたと言えるでしょう。その後、2つの大きな戦争の後、大量生産・大量消費の社会に疑問を持ち、より自然の摂理に沿った生き方を指向する地球意識を持ったカウンター・カルチャーの世代が国を飛び出し、世界中を巡りました。60年代のエコロジカル・ムーブメントやイルカの知性の研究はこうした流れとリンクします。その中でインドにも多くの若者たちが向かいました。まだ、誰も知らなかったリアルなインドに辿り着いたとき、それは新たな西洋と東洋の出会いでした。いま街で見かけるようなスタジオなど当時のインドにはなく、川辺や森やアシュラムでヨーガに出会います。今のようにあらゆる情報がネットで見られる時代ではなく、ヴィヴィッドにヨーガと自然と神秘に出会いました。この60年代からの西洋と東洋の再会が今に続くヨガ・ブームの源と言えるでしょう。
 クライブは、まさにその時代の流れを俯瞰してきた貴重な生き証人です。インドの各地の森や川や寺院などの聖地を巡り、ありのままの世界の美しさに驚嘆し、ただ目覚めてシンプルに生きることの大切さを伝えます。何ももったいぶったものはなく、私たちの内にあって眠っていた大切なことを思い起こしてくれるかもしれません。英語がわからなくても、ご心配なく。訳してくれる人がたくさんいますから、ぜひ、クライブとトークしてみてください。

 リトリートに参加する方々は、とにかくヨーガを真剣に探求し続ける方々もいれば、いつもユーモアに溢れる方々もいますし、ひとり静かに過ごすことを愛する方々もいます。練習は皆で一緒にしますが、基本的に自分が自分でいられる場所です。皆人それぞれです。いろいろな人と語らうのもいいし、一人静かに過ごすのもおすすめです。東京とは言え、奥多摩の山は深い森に包まれた場所ですから、空いている時間に山の散策に行くのもいいでしょう。いろんな素敵なルートがあります。星々や遠くの街の灯りがみえるナイト・ウォークもいいでしょう。
 食事は全てベジタリアンで、宿坊の女将さんたちが丹精込めてつくってくださるとても美味しい料理です。ちょっとハードかもしれない練習のやりがいが高まります。
 今年は、初めてリトリートに参加する方にも来やすいように、連休のある日程で短期のオプションの枠を少し多めに用意しました。気になっている方々はぜひこの機会にクライブ先生のリトリートを体験してみてください。短期のスペースは限られていますから、ご予約はお早めに。
詳しくはワンダーヨーガのサイトをご覧ください。
 また、リトリートはちょっと都合がつかないという方は、名古屋のワークショップをお勧めします。

クライブ・シェリダン 名古屋ワークショップ
9月13、14日(土日)桑山美術館
桑山美術館は、茶室のある落ち着いた風情の美術館です。茶の湯の文化を伝える茶器や侘び寂びの美術品を展示する素敵なところです。オプションで頼めるランチは、これもとても美味しいベジタリアンの食事です。
 東京から新幹線で1時間40分。新大阪からなら1時間弱。ウェブサイトには宿泊情報も掲載しています。
名古屋ワークショップについては、プラーナモーションのサイトをどうぞ。

ヨーガのこれからの可能性

戦争の可能性がよりリアルになった日に思うことをちょっと書きます。
 今年は去年よりさらに混沌としていて、先日7月1日も日本を戦争を出来るような国にしてしまうような閣議決定がなされ、去年の参議院選や秘密保護法案もそうですが、ヨガが理想とする非暴力とは対極の情勢に世の中は引きずられているように思われます。これは日本に限らず、世界情勢などを見てましても何か地球規模の悪意のようなものが吹き出しているかのようにも見えます。全く意味のないマネーとパワーのゲームがこれまでにも増して繰り広げられている訳ですが、地球環境のことを少しでも考えるなら、そんなことをやっていたら人類の存続も難しくなることは自明のことです。けれども、悪意と思われるようなものも、この世で現象化することでことの本質が明らかになる部分もあります。これからは私たち一人ひとりがどう生きたいのかが問われてくるでしょう。
 どういう訳か、フライヤーが出来てこのブログをアップしようという時は、日本の政治状況が熱くなっていて、大きな力をもった方々による無理スジなことがまかり通り、抗議行動が活発に行われています。ヨガと社会の関わりというものを歴史的に考えてみると、伝統的にはあまり関わりがないと言うか、社会を去った人々がヨガをしていたりしたので、ヨガは社会との関わりのことは考えずに、ひたすら個を超えた領域を目指していたわけです。しかし、高度に産業化した現代において、ましてやこのまま行けばより大きなあるいは多くの苦しみがもたらされかねない状況において、ヨガが社会に与えることができる恩恵のようなものもあると思います。
 そもそも、ヨガがこれだけ産業化されるようになったのは、歴史上初めてのことでしょう。行き過ぎた商業化には、えっ!?と思うこともしばしばですが、広く普及してきて市民権を得たことは悪くないことだと思います。さまざまなヨガが現れて選択肢が増えたことも良いことです。ヨーガは結局のところ瞑想だと思うのですが、今後さらに混迷の増しそうな世の中においてヨーガがなしうることは、自分の個としての諸問題を可視化し、それらを手放し、本当の自由を得る、ということだと思います。ヨーガの瞑想は、エゴの問題を解決する、さらには個を超える実践的ツールになりうると思います。自分のエゴ・マインドに酔いしれているようであれば、遅かれ早かれ破綻は避けられないでしょう(もちろん、それはヨガを深めるいいきっかけなのですが)。しかし、思想や教条、これまでの条件付けを排し、ありのままの事実に立脚する。自分の思考や感情を抑圧せず、全てを引っ括めてクリアにニュートラルに気付いていること、このことが私たちの明日のより良い1歩を進めてくれるのだと思います。
 そして、気付いて、目覚めて、歩み始めた人がその気づきをシェアする。そうすると、また気付いて、目覚めて、歩み始める人が増えていくでしょう。そうなっていくといいなと思います。




2014年7月2日水曜日

1年1ヵ月ぶりの更新・・・再びクライブ 2(実はさらに10ヵ月ぶり)

・・・昨年、下書きを書いていおて、アップせずのままになった原稿今更ながらアップします〜

シヴァとシャクティの結合が表わすもの

ちょっとマニアックかもしれませんが、もうちょっと、突っ込んで見てみましょう。
 シャクティを表す下向き三角形ですが、各角にアルファベットの文字が書いてあります。左から時計回りで、Hatha(ハタヨガ)- Tantra(タントラ ≒ 密教)- Sacred Power(聖なる力)とあります。聖なる力は、まさにクンダリーニのパワーで、大地母神であり、マザーアースであり、生命の源であります。その力を顕現させる手段がハタヨガでありタントラであることを示しています。もちろん、このような意味付けはヨガの公式見解ではなくて、原則に基づいてはいますが私どものアレンジであることをご了承願います。
 タントラとハタヨガの関係は母と子のようなものです。タントラはいろいろありますが、チャクラを使った瞑想はタントラに由来します。ハタヨガはそうしたタントラの一部がより身体的な鍛錬に特化したものと考えると分りやすいでしょう。アーサナとプラーナヤーマは特に瞑想のための下地づくりに優れています。もっとも、世の中的には、アーサナすることがハタヨガと思い込まれているようですが。タントラもハタヨガも骨盤基底部に眠れる潜在的なちから、クンダリーニの活性化を行う修行体系で、そんなことからもハタヨガとタントラは親和性が高いのです。
 そして、シヴァの上向き三角形の方は、上から時計回りで、Absolute Consciousness(絶対的な意識)- Pure Awareness(純然たる気付き)- Advaita(アドヴァイタ=非二元論)とあります。絶対的な意識とは、シヴァ意識、ブラフマ意識、普遍意識とも言えるでしょう。変化する相対世界ではなく、そうした絶対不変の境地に修行者を誘う手段として、純然たる気付きは客観視の瞑想からもたらされます。禅ぽいやつですね。

 アドヴァイタは、8世紀の聖者シャンカラが唱えた不二一元論に通じるものですが、クライブの場合は、聖仙ヴァールミーキの著した『ヨガ・ヴァシスタ』などに通ずるよりディープな非二元論です。ヴァールミーキは3世紀に『ラーマーヤナ』を編纂した聖者でもあります。近現代的には、ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジに通ずるアドヴァイタです。絶対不変の究極のリアリティが真実で、現象世界はまさに無知から生じた幻だとするちょっとぶっとんだ、なんとも魅惑的な考え方ですね。もっともアドヴァイタの大事なポイントは、こうした見方を思想や教条としないことです。そうしたとたんに、いっきに二元の世界の枠組みにからめとられます。さくっと直感的に非二元的な理解の方向性に乗っかれるかどうかが分かれ目となります。論理的にアタマで理解しようとすると訳のわからん話かもしれません。悟りに通じる直観知が非二元論の要諦ですが、これには自分の意識の核心からエゴ・マインドを手放す必要があるでしょう。まあ、現象世界の背後にある大いなる宇宙的な采配をそのままに気付いたらいいんじゃないんですか、と言うことです。エゴ・マインドはいつも色づけして世界を見ているので、宇宙の真理に気付けないままになっているとされます。それはまさに無知(アヴィディヤ)の為せるわざで、私たちにとってはそれがデフォルト(初期設定)となっています。ヨーガを修することとは、その色づけのヴェールをとっちゃいましょってことですね。まあ、そんな訳でシヴァの上向き三角形です。
 このシヴァとシャクティの結合したカタチがアナハタチャクラのヤントラで、アナハタチャクラの意味として、バランスということがありますが、この男性原理と女性原理の和合からそのあたりのことは捉えることができますね。そして、そのバランスがとれたとき、エゴを越えた「至上の愛」が内に根ざすのです。大きなLOVEです! また、アナハタチャクラの裏は、真の自己の座すところでもあるとされます。ハートの声に耳を澄まそう、ですね。

いまここのタイミング


このフライヤーが完成して蒔き始めたころ、あるブログを見ていたら、7月下旬に太陽系の惑星が六芒星のフォーメーションを組むことが指摘されていました。占星学的には戦争や災害が起りやすいときともされていて、7月の日本であった選挙とその後の様子を見ているとどうも平和とは反対の方に政治の世界は向かおうとしていることに重なるようにも見えます。インドではエゴと悪のはびこる暗黒時代のことをカリユガと言います。TPPや原発の問題、そして戦争を可能にする憲法改悪を望む風潮、カリユガの兆候が増しています。もっとも今に始まったことでなくて、もう明治維新からずっとカリユガだったとも言えますが、原発、環境、戦争などの大きな問題が私たちに迫る人類存亡の危機がここまでリアリティを帯びたことはなかったでしょう。
 しかし、カリユガの時代は、大いなる目覚めの時代でもあると言われます。大きな問題とされるものも元はと言えば、人間のエゴの肥大に根ざします。戦争や原発なんて無くても全然幸せにやっていけるのに、エゴの方に同調しちゃう、あるいは同調させられちゃう、場合によっては気付かないうちに。ガイアの母なる女神もプレアデス星団の方々(?)も、そろそろ気付いた人は目覚めましょうとサインを出してるんだと思うんですけど、いかがでしょう? そして、ハートの方に同調した方がいいんじゃないかと思うのです。
 今年(2013年)、日本は出雲大社(5月)と伊勢神宮(9月)の遷宮が同じ年に行われたりで、神界も大引越の年だったりもします。また、マヤン・カレンダーの人たちは先月の26日に銀河の新時代を祝ってたそうです。去年の12月に古いカレンダーが終わって、7月26日に新しい時代が始まったとか。これらは調和へ向かう動きの様子かな。どうも両極にものごとが目に見えるかたちとして出ているように思うのですが、いずれより分りやすいかたちであきらかになることでしょう。大きな災厄が小さくなることを祈るばかりです。
 なんだか話が飛んでいきましたが、3.11後の日本でその前の時代に戻ること(あるいは戻りたいような雰囲気)はもう無理な話でしょう。これだけ、いろんなことが明らかになってしまって無茶過ぎです〜 けど、テレビではいろいろ言っちゃいけないことたくさんあるらしいですね、見ないので分りませんが。そろそろ、少しでも大地に根ざした生き方にシフトしていかないとなかなかこの現象世界も物理的に続かないんじゃないでしょうか。穏便にシフトできることを願うばかりです。

まあ、長々と書いてしまいましたが、こういうフライヤーをつくったのは、まだ出会っていないけど、ハートが通じる、ヨーギーニやヨーギ、シスターやブラザー、あるいはシャクティやシヴァに出会いたいなってことだったりします。パソコンやネットが苦手な人もいるだろうから印刷して蒔いてます(私もネット難民なんで)。もちろん既に出会っているシスターやブラザーはさらにヨーガを深めていきましょう!
 フライヤーはこちらのお店やスタジオに置いてあります。(リンクも貼ってあります!)

話飛んだりして、ひょっとして難しい or 訳の分らない話だったかもしれないけど、リトリートの方は、いろいろなレベルで参加出来ますから、心配しなくて大丈夫です〜 アーサナをがっつりしたい方も、静かに瞑想で座っていたい方も、プラーナヤーマでちょっと飛びたい方も、マインドを越えて究極のリアリティを目差したい方も、エゴを解放したい方も、自然の中でゆっくり過ごしたい人もそれぞれどうぞ〜 来てる人たちは、やさしくて楽しい人たちばかりですから、ご心配なく! ヨガばかりしていてもいい日々! 最高です!

長文、お読みいただき、まことにありがとうございます!
Om!

2013年8月15日木曜日

1年1ヵ月ぶりの更新・・・再びクライブ 1


ブログを始めてみたものの、結局、1年以上も過ぎてしまいました。運営しているWonderYoga*のイベントの紹介の他、ヨガに関わる本のブックレビューをやろうかなと思ってたんですが、そのまま放置で今に至った次第です。一応、紹介しようと思う本のリストは何気にあるんですが、それはまたいずれ。久々のブログは去年に引き続きオーガナイズしているクライブ・シェリダン師のリトリートとワークショップのご紹介です。
 9月14、15日に名古屋でワークショップ。9月16〜22日が奥多摩の御岳山でリトリートです。
WonderYoga* のサイトはこちら


至福の宇宙へ!


去年に引き続き、今年もフライヤーつくりました! ちょっと、いろいろ含んでいるので、そこらへんのご紹介をさせていただきたいと思います。共同オーガナイザーPranaMotionと熱き熟議を重ね、今年はやっぱり「宇宙」だなってことになりまして(笑)、それとマントラ(御真言)で 'Sat Cit Ananda' (超訳すれば、真理はこころを至福に飛ばす、みたいなとこです)と言うのがあって、そこらへんをデザイナーさんに表現してもらおうと言うことになりました。私どもとしましては、フライヤーとも言いますが、「お札」のつもりでもあります。これをつくることが、その年のリトリートの覚悟をきめるようなつもりがあったりします。もっとも、そんなに深刻なことではないですが・・・

まあ、そんな訳でこんなフライヤーとなりました。


夜明けを迎える惑星


まず、下の方から。
 枠外になりますが、オレンジ色の光の下には地球があって、まさに日の出を迎えています。オレンジの光は夜明けの陽の光です。オレンジ色の光の上、可視光の途切れた先には宇宙がひろがっています。背景に見える星々はプレアデス星団、いわゆるスバルです。コズミックな方々にはおなじみのところですね(笑)。ワクワクしちゃうことをしよう!と誘うバシャールさんがメッセージを送ってくださってるところです。宇宙のありがたいところです。何言っているか、よくわからない方はスルーしちゃってください〜 いろんな考え方があるということで・・・
 そして、透かしのマントラの上に六芒星(ろくぼうせい)✡ 。こちらはアナハタ・チャクラ(ハートのチャクラ)のヤントラです。ヤントラとは、幾何学的なシンボルでタントラの原理を象徴的に表すとともにチベット仏教のマンダラのように瞑想の対象ともなります。あと、よくよく考えてみたら、ダビデの紋章やザイオンの星とも呼ばれるユダヤのシンボルでもありました。日本では伊勢神宮や京都の鞍馬寺にも用いられているシンボルでもあるようです。

 タントラの考え方においては、下向きの三角形は、シャクティ、女性原理あるいは現象世界を顕現させる潜在的なパワーを表しています。上向きの三角形は、シヴァ、男性原理あるいは普遍の意識を表しています。どちらか片方だけではこの現象世界は現われず、両者が結合することでこの世界、認識するものと認識されるものが現われます。この辺りのアイデアは、サンキャ哲学のプラクリティとプルシャの関係に対応しているとされます。まあ、そのタントラ版とも言えるでしょう。ただし、サンキャでは物質原理であるプラクリティがそれほど重視されないのに対して、シヴァ・シャクティと言う時には、プラクリティになぞらえられるシャクティが重視されます。このシャクティは、クンダリーニのパワーであり、まさにガイアたる大地の女神を表しているともされます。また、シヴァはインドの代表的な男神のシヴァ神であり、シャクティはさまざまな女神のことでもあります。ここらへんの意味の込め方はなかなか多層的で、ひじょうにインド的な象徴体系となっています。

とりあえず、パート1はこの辺で。
もうちょっとタントラについて突っ込んだ続きは、パート2でお送りします〜

2012年7月7日土曜日

ブログを始めてみました〜

始めまして、WonderYogaProjects*(ワンダーヨーガプロジェクツ)というヨガのリトリートとワークショップのオーガナイザーをやっている Hiroshi と申します。2012年9月17日〜23日にかけて6泊7日のクライブ・シェリダンのリトリートがあります。ワーオ!な瞬間を味わいつつも、しっかり修行系なリトリートです。9月29日、30日は名古屋でもワークショップがあります。
 突然ですがブログをやってみようと思い立ち、始めてみました。ちょっと斜めな感じになってしまうかもしれませんが、暖かく見守ってくださると嬉しいです。
 これから、ヨガにまつわるいろんなことをこのブログで紹介していきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします!
 とりあえず、クライブのリトリートのフライヤーご覧ください〜 背景のいくつもある三角形は SriYantra 、インド思想史上の極み SriVidya のヤントラです。この図像にピンと来た方は、ぜひウェブサイトを訪問してみてください!