2015年8月31日月曜日

2015 クライブ・シェリダンのリトリート&ワークショップともろもろ思いついたこと

またしても、1年振りとなるブログで、今年のクライブ・シェリダン師匠のリトリートとワークショップのご紹介です〜と言うつもりで書き始めてみたら、あれこれとりとめもない話になってしまいました。

ヨーギーニーはシャクティである


まずは恒例の今年のおふだ(フライヤー)です。
今年は、シャクティをフィーチャーいたしました。裏面にも記しておりますが、シャクティとは、インドでは一般的に女神を意味するほか、原初的な宇宙のエネルギーでクンダリニーと呼ばれる潜在的なエネルギーでもあるとされます。背景の赤色もシャクティの象徴的色。下の赤紫もそのバリエーション。上の橙色はインドではババ・カラーとも言いますが(?)、神聖色です。今年は、思い切りインド色が強い感じになっております。
 下向きの三角形はそのヤントラ(神聖幾何学図形とでも申しましょうか)で、下向きであるのは、大地に根ざすと言うか、大地から物質化あるいは現象化する顕われです。対となる概念はシヴァ。シヴァ神のシヴァですが、その場合は、神さま的な意味合いというよりは、普遍の純粋意識というような意味合いになります。こちらは上向き三角形なのは以前のブログにも記した通りです。

 シャクティの女神としての意味ですが、これもさまざまな位相がありまして、各地の寺院や祠(ほこら)で祀られている個別の女神のことを意味するのと同時に、マハー・シャクティ(大女神)とも呼ばれる、宇宙そのものである究極の神格としての意味合いもあります。世界の多くの宗教観では、究極の神格は男性神か性別のない非人格神が一般的な扱われ方ですが、インドの特にタントラ的な世界観の中では女性的な側面が与えられているところが私はとても素敵だと思います。何かしかつめらしい堅苦しい存在でではなくて、見守り育む優しさと妖艶さとある種の恐ろしさを持った存在としての女性性のエネギーを究極の神格として見立てることは、聖なるものをもっと身近にしてくれるように思えますし、微笑みも増しそうです。インドではそのように実感いたします。
 また、地域の個別の女神などの神格は上位の大女神などの神格と別個の存在ではなく、その一つの顕われと考えられるところがインド的考え方です。それがさらに引き延ばされて、女性ヨーガ修行者、ヨーギーニーもシャクティであり、子を産み育てるお母さんもシャクティであり、インドではお母さんはとても大事にされています(と言うことになっていますが、実際はそうでないことももちろん多々ありです)。Om Shakti Maa ! の Maa は、お母さんということです。さらには、全ての女性はシャクティである、とも考えられます。Om は無から世界が顕現することでもありますし、Shakti Maa は言うなれば、マザー・アース、母なる地球とも言えましょう。

 毎年、どんなデザインにするかは、その時のインスピレーションなんですが、今年は4月に、以前、大阪であったヨガのティーチャー・トレーニングのときの生徒さんがスタジオを開くというのでそのオープニング・パーティに招待いただいたのですが、なんとスタジオのお名前がシャクティ・ヨガ・スタジオ! 私はとても嬉しくなって、もう、とにかく行く!という気持ちの延長線で「よし、今年はShakti ですな!」ということになって、こういうデザインになりました。

 裏面も行ってみましょう〜


 スタジオを開かれた方々も、とても素敵なお母さんヨーギーニーでまさに元気溢れるシャクティです。シャクティ・ヨガ・スタジオのリンクはこちら。私の分身のDovrocsky(a.k.a Dovy)はこのパーティで、DJをやらせていただいておりました。すごくシャンティなエネルギーで大喜びだったようです。ちなみにDovyはファンキーなインドの大衆音楽(ヒンディ・ポップス)を中心に南インドの古典音楽(カルナティック)やバジャンなんかを廻すDJのようです。

 さて、インダス文明から数えるとして、5000年くらいのヨーガの歴史があるとして、その間、もちろんたくさんの女性修行者(ヨーギーニー)がいたと思いますが、今の時代ほどヨーガが世の中に、しかも女性たちのあいだに普及した時代はなかったと思います。普及の代償として、ヨガが底の浅いものと化していったり、過度に商業化したりということは、この十年ほどのヨガ・シーンの変遷を見ていても明らかではありますが、それでもなお、ヨーガがこれだけ日常に根付いてきていることって、考えたら凄いことだと思います。

ヨガを教える「資格」ってあるの?


私がヨガを始めた時も、周りは女性の生徒さんたちばかりでしたし、ティチャー・トレーニング(講師養成講座)とかを受けた時も男性は私一人でした。多くの方はヨガを始めて3、4年で去っていきますが、より深い道に入って行く方も少なからずいます。初めは美容目的かなと思われるような方も次第によりスピリチュアルな方向、瞑想への道に入っていくのを何人も見ています。十年以上前、ヨガの講師になるための場所も機会もあまりありませんでしたが、今は驚くべき数の講師養成講座があって、もの凄い数の方々が講師の「資格」を取られています。実際は「資格」なんてものを誰も発効する権利はなくて、しかるべき時間をかけて、しかるべき講座を修了しましたという修了証がもらえるだけで、資格がもらえるわけではもちろんありません。ヨガの教える「資格」とは、昔であれば師匠の承認でしょうが、現在のそういった講座では「これこれの課程を修了しました」と言うこと以上のものでも以下のものでもないわけです。
 今の講師養成講座は、おおよそヨガ・スタジオで教えるに際して必要と思われるノウハウ—つまりアーサナの技術とヨガの基本知識—を教えているわけです。最近、驚いたのは、どこかの講師養成講座では、ヨガ講師としてやっていくためのマーケティングのクラスもあるんだそうです。私がヨガを始めた時にはそんなことあり得ないと言うか、それヨガじゃなくてヨガの皮を被ったビジネスでしょう? と言う感覚だったと思いますが、今ではヨガ講師はポピュラーな職業なんですね。もちろん、マーケティング・ヨガを否定するつもりは毛頭ありません。良いのではないでしょうか、時代のニーズに合ったヨガがあって。私も試しにそういう講座行ってみようかな・・・
 もっとも、クライブ師匠が講師養成講座に通ったと言う話は聞いたことないですし、40〜50年前の時代にそんな講座もなかったでしょう。私の先生の一人であるダニー・パラダイス氏は、ヨガをいつ教えるか? と言う問いに「ヨガ教えて〜」と友だちとかに頼まれたらと言っていました。これはなるほどと思いました。
 まあ、現代はカリユガ(暗黒時代)ですから、ヨガのマーケティングも全然仕方ないですが、講師養成講座とかで何年か教えていたりして気付いたのですが、少なくない方が仕事としてヨガを教えることに忙しくなってしまって、なかなか自分のヨガの時間あるいはヨガの学びの時間を取ることが難しくなってると感じます。中にはクラスのためにヨーギーニーを演じている方もいるかもしれません。そんなに頑張らなくてもいいのに〜と思いますが、生き抜くために瞬間風速的には仕方がないのでしょう。もちろん、これは大抵、エゴ・マインドの問題で、世の中ほとんど意味の無いことにエネルギーが浪費されていて、まあ、それがこの世の現実をつくっているわけで、どうしなきゃならないとかどうしてはならないとか言うことはなくて、賢者たちはただ「気付けばいいんじゃないですか?」と問いかけているわけであります。

 ちょっと話が逸れるかもしれませんが、インドや自然の湧水地とか原初の清浄なるものが発している場所に行ったりすると、清々しい気持ちになったりします。インドにまで行かないまでも、何かしらか源から来るものを直接、充分に体験する必要があるんじゃないかなとあらためて思います。何と言うか、知識が頭の中で貯えられているだけではなくて、その知識が野山や水辺、森の中でカラダが体験することと充分に馴染んでいくといいんじゃないかと思います。パソコンや携帯など私たちを取り巻く電子環境は、電磁波を含めるにしろしないにしろ、人類が今まで体験したことのない状況です。それは仕方がないことかもしれませんが、<目—脳—指>を中心としたカラダの使い方は、脳を含めた神経系を主に使います。「思考・観念」が優位になり易い状況です。と言うか、今の世の中はそのロジックで動いています。おそらく、この数百年、私たちは、「感じること・今ここ」については退化していっているでしょう。

 ヨーガは「思考・観念」 の領域もありますが、本質的には「感じること・今ここ」に立ち返ることを重視していると思います。翻って、多くの女性たちがヨガを模索していることを自分なりに理解しようとしてみると、男性的な「思考・観念」の世界からより女性的な「感じること・今ここ」に戻りたがっている一つの顕われなのではないかと思ったりします。しかし、ヨガの世界もマーケティングがより幅を利かせるようになり「思考・観念」に絡めとられて来ているのかもしれない。これはなかなか難しいですね。
 ヨガの講師養成講座に戻りますが、これはなかなか便利なものです。200時間くらいの時間が取れれば、アーサナの技術やヨガ哲学を一通り学べるわけですから。場合によっては、マーケティングまで! しかし、「感じること・今ここ」はお勉強してどうにかなる問題ではなくて、生来の資質があるか十分な経験が必要です。この辺りが一人ひとりの方々にとってヨーガがよりいきいきとしたものになっていく鍵なのではないかと思います。

クライブから聞いた彼のヨーガ修行


では、先人に学ぶと言うことで、昔はどうだったのかってこと、まだ、講師養成講座がなかったクライブがどんなふうにヨーガを学んできたのかをいろいろ以前に聞いた話から書いてみようかと思います。
 クライブ師匠は20代の頃から、インド各地の山や森や河、アシュラムや寺院で修行してきたそうです。ヨーガのアーサナは先生からの指導を受けたりもあったそうですが、アイアンガーの日本語でも出ている『ハタヨガの真髄』ですね、それを持って山や川辺で独習していたそうです。時には、ハタヨガを行じているサドゥ(出家修行者)とともに練習をシェアしたりしていたそうですが、インドの現場では今どきのヨガ・スタジオでやっているような洗練されたアライメントみたいなものはあまりないような感じらしかったそうです。30〜40年前は、ヨガマットもまだなく、ヨガマットは、ヨガ現代史上(そんなものがあるとすればですが)かなり画期的な発明だそうです。それ以前はゴザだったそうです。そう言えば、昔の日本のヨガ教室ではバスタオルでした。

 話し戻って、クライブは、瞑想はヴィパッサナから始めたそうですが、インドで修行するうちに自然と深まっていったようで、各地の寺院や山や洞窟で座ることを続けてきたそうです。私もいろいろなところで座るのが気に入っていますが、彼に教えていただいたところで気に入った場所は毎年、座り(瞑想)に訪れています。その場所はまさにシャクティの寺がある村であり、その寺は多くのインド人の家族連れが訪れるような寺院で、カルト的なアシュラムの雰囲気は微塵もない場所です。千年以上に渡って儀礼を司る聖職者の家系の僧侶たちがおそらく千年前とほとんど変わらないことを続けていて、いまや経済発展したインドの中流家庭の観光旅行の人気のデスティネーション(旅行先)になっているようなところです。まあ、日本人が高野山や熊野に行くようなノリだと思ってもらったらわかり易いかもしれません。インドの観光旅行はおそらく巡礼をかねていることが多く、出会った方々は「何日かかけてこの寺とこの寺とここを廻って帰るんだ」と言うような話をしてくれます。私の方も「なんでここに来たの?」とか聞かれます。「だって、あちらの方から何とも言えないありがたさが・・・」とか答えると、そうか(外人の)あなた(で)もわかるのか言わんばかりに握手を求められるような感じです。
私も7年、毎年同じ村に通ってますが、近年、増々その村に来る来訪者が増えて、大きなホテルが建ったり、山が削られて宅地になったりするのを見ました。クライブが昔に訪れた時とはずいぶんと様変わりしたそうです。それでもなお、早朝にその寺で座ることの素晴らしさは、とりあえず自分にとっては例えようも無くありがたいことです。そういえば、去年その村に滞在している時に、脈略なく、とにかく、「マザーなんだ!」と言うインスピレーションが湧いてきて、理由のない感謝が 沸き起こってくることもあります。面白いですね。

喜びに溢れた修行の道を!


クライブはインド中を巡って修行をしてきたそうです。1966年から、時にはほぼ住むような時もありつつ、毎年のようにインドに滞在しています。いま計算してみたら、まさに巡礼(ヤートラ)を50年ほどインドで続けているわけですね。それって普通にスゴいことですね。巡礼は、インドにおける修行のメニューの中でも重要度の高いものです。いろいろな巡礼地やそれらの聖地を巡る周遊ルートもあります。日本で言えば、四国のお遍路さんのようなものです。聖地巡礼をし、行く先々で修行や出会った修行者たちと交流して知識や経験をシェアする。どこかのアシュラムに学びに行くのよりももっと自由な修行の旅です。こういうスタイルは自分にはぴったりで、基本的な技術を習得したらあとは自分でやるしか無いわけですから、それをより良い場所、聖地とは修行に最適なエネルギーの場所ですから、自分に合った場所で練習するのは実に理にかなったことなのだと思います。
 そして、ここが大事なポイントなのですが、クライブは義務感に駆られて練習したことはないと言います。いつも喜びに満たされて修行—アーサナ、プラーナヤーマ、瞑想の練習—をしていたと言います。義務感は「思考・観念」の領域だと思います。それではとても続かないでしょう。ただ、その中でも日々の瞑想は出来るだけした方が良いと勧めていて、私も毎日、座るようにしていますが、ときにはアリバイ的に義務的にあるいは儀礼的に10分だけ座ることもありますが、日々続けていくと、ある程度(30分以上)座らないと、なんだかしっくり来ない感じになってきたりします。比較的時間に余裕があるとき、座ることは出来不出来に関わらず喜ばしいことだと実感します。
 このような喜びや感謝のある状態、あるいはとらわれの無い状態とも言えるかもしれませんが、これは「感じること・今ここ」に通じると思います。エゴ・マインドから比較的自由な状態です。もちろん、悟りにはまだ遠いかもしれないけれども、エゴ・マインドから自由になること、それをカラダとココロに充分と実感させることが大事なのかもしれません。

 クライブのリトリートやワークショップでの練習は、アシュタンガ・ヴィンヤーサに近い強度のアーサナでプラーナヤーマも結構きつめです。ただ、けして自分の限界を超えて無理にポーズをさせたりすることはありません。もっとも、ゆるゆるにやっているとしっかりとしたキツいアジャストが入ったりしますが、まあ、これは愛のたぐいです(笑)。
 クライブのリトリートやワークショップは、何もサーティフィケーション、つまり修了証は出ません。むしろ、ある程度、基本を学んだ方が本格的な修行を自分で進めていくことにいざない、生徒たちを野山に放つようなところがあるように思います。『マハーバーラタ』などインドの古代叙事詩なんかを見ると、リシ(聖仙)たちはたいてい森に棲んでいます。ヨーガは歴史上長く、森の中で実践されてきたのが実情です。リシケシがヨガの聖地とよく言われますが、それはむしろ最近のことのようです。もちろんリシケシを否定するつもりは毛頭ありませんが、東京であれ、大阪であれ、リシケシであれ、どこかでヨガを学んだら、そこで学んだこととヨガ・マットを携えて、森や山に行ってみる。携帯やガジェットのスイッチは切って、一人あるいは数人で自然に馴染んでプラクティスを楽しむ。これぞヨガの喜びです。そういった喜びをクライブは私たちに伝えます。

 今回で、クライブのリトリートとワークショップのオーガナイズは4年目になりますが、毎年思うのです。まだ会ったことのないハートのつながる仲間に会いたいと。そんなつもりで、あちこちにおふだ(フライヤー)を蒔いています。もちろん、会ったことのあるお友だちにも、来る来ないは別として、私たちのこのリトリートとワークショップにかける思いが伝わりますようにと。(時々、フライヤーに込めた思いに、肯定的な言葉をかけてくださる方、ほんとありがとうございます!)
 そして、もし、ここまで読んでいただけたら、支離滅裂な文章をご拝読いただき、ありがとうございます!

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